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小学生には最低限の規則を守るなかで、友達を思いやる気持ち、道具を大切にする気持ち、そして野球ができる感謝の気持ちを持って、明るく!楽しく!元気よく!野球を楽しむ中で上手くなるこつを指導していきます。
中学生については、小学生に求められることが当たり前にできることが最低限。やはり、一番難しい年頃ですので、様々な視点からアンテナを伸ばし、野球だけではなく、人間としての成長を指導させていただきます。
硬式アカデミーにつきましては、私がぶれることは一切ありません。高校野球で求められる以上のことを学んでいただきます。
以上、私の指導が全て正しいわけではありません。答えは自らが感じていただければと思います。是非、香川ベースボールアカデミーに野球を学びに来てください!とは言いません。志を高く持てる方の入会をお待ちしております。私自身、小学生の時は体が弱く、一番下手くそでした。下手を認め、前に一歩踏み出す勇気が大切ですよ!
高松東高では2年夏に捕手から投手に転向し、四国学院大学に進み、四国六大学リーグ時代には1年の春からエースを務め、リーグ優勝5回、リーグ通算30勝、最優秀新人賞・最多勝3回・最優秀防御率4回を受賞。
2001年、四国六大学リーグ初のプロ野球選手として、ドラフト10巡目で広島東洋カープに入団。
2002年は、プロ入り1年目から中継ぎで13試合に登板し、防御率1.20。
2003年は、中継ぎエースとして自己最多の49試合に登板、防御率3.00。
2004年は、2年連続の中継ぎの柱として45試合に登板、防御率は5.36。2年連続の最多登板により疲労から肩を故障。
2005年は、14試合に登板したが、全盛期の登板が出来ず、防御率9.98。
監督が交代した2006年は一度も1軍に上がることができず、10月1日に戦力外通告を受ける。
その後、四国アイランドリーグで野球を続ける事が決まり、広島の大先輩でOBの西田真二監督率いる地元・香川オリーブガイナーズに入団。
アイランドリーグ加入初年の2007年は、前期は主に先発、後期はリリーフを中心に起用され、41試合に登板。7勝6敗13セーブの成績で最多セーブのタイトルを獲得し、チームの前後期連覇に貢献した。オフに、11月17日と11月27日に行われた12球団合同トライアウトに参加するも獲得する球団は現れなかった。
2008年、ベースボール・チャレンジ・リーグの福井ミラクルエレファンツの選手兼任コーチに就任。主にクローザーとして登板、当時は延長戦がなかったことから同点の場面でも登場することが多く、リーグ2位の9セーブを挙げ活躍した。シーズン終了後、選手としては引退。
2009年シーズンより、福井ミラクルエレファンツの監督に就任。
2010年、古巣でもある地元の香川オリーブガイナーズの投手コーチに就任。他の独立リーグチームからも指導者として誘われていたが、西田真二監督への恩返しの意味も込めて引き受けた。
2011年、地元香川の野球王国を復活をスローガンの下部組織ガイナーズアカデミー(香川オリーブガイナーズによる少年向け野球学校)の投手コーチ兼マネージメントを引き受け、2012年度はガイナーズアカデミー監督に就任。2013年度は休止状態になったガイナーズアカデミーを個人で引き継ぎ、「天野野球塾」として活動し2016年3月で活動を終了。2015年4月から天野野球塾の塾長、香川ベースボールアカデミーの監督、四国学院大学のコーチを兼任し務めてきたが、これまでの野球指導を2016年4月から香川ベースボールアカデミーの代表として一本化し専任。
高松東高校1995-1998-四国学院大学1998-2002-広島東洋カープ【背番号48】2002-2006-香川オリーブガイナーズ2007-福井ミラクルエレファンツ2008
四国学院大学在学中の2000年、同校新入生に同じ4月12日(1981年)生まれの東条弘典が同年5月29日に東条は交通事故により他界。
亡き東条の背番号が「48」。2001年ドラフト会議にて広島東洋カープから指名。球団からの提示背番号が「48」であり、現役続行の限り背番号は『48』を通した。
指導者となってからも48番を付け続けている。
福井ミラクルエレファンツ【コーチ2007・監督2008】ー香川オリーブガイナーズ【コーチ】2009,2010ー
香川オリーブガイナーズベースボールアカデミー【コーチ GM兼監督】2010-2012ー天野野球塾【代表】2013-2016ー
香川ベースボールアカデミー【監督】2014-2016ー四国学院大学【コーチ】2014-2016ー現在